大相撲の番付 《相撲・テレビ・歴史》
「1枚違えば家来同然」「1段違えば虫けら同然」などの言葉に代表されるように、大相撲の世界で番付は絶対的なものである。
番付上の地位の区別がより明確になったのは1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。
東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載されたのは1890年5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(慶応4年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州陣幕久五郎横綱土俵入仕候」と記載された。
本場所で「横綱」の文字を表したのは大坂でこのときが初めてである。
これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月-1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年7月-1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月-1874年6月)の3例が挙げられる。
番付上の地位の区別がより明確になったのは1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。
東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載されたのは1890年5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(慶応4年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州陣幕久五郎横綱土俵入仕候」と記載された。
本場所で「横綱」の文字を表したのは大坂でこのときが初めてである。
これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月-1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年7月-1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月-1874年6月)の3例が挙げられる。
update:2009年09月25日
